ゴミ屋敷解決に向けてへの過程9【精神科通院5回目】
正月明けに、母と精神科へ行ってきた。
1か月前に、昼の3時に15分だけ片付けをして、
習慣化してみようという、
出来た日にシールを貼っていく方法で、
片付けに挑戦してみた結果は・・・
全然出来なかったらしい。
最近寒かったからなかなかやる気が・・と笑いながら言っていたが、、
でもこれは先生には想定内だったのかもしれない。
先生「では次は、もう既に出来ることを目標にしてシールを貼って行きましょう」
私「・・・なるほど!!と、いうことは既に出来る洗濯などをしたらシールを貼るということですね!」
先生「そうですね」
なるほど!
掃除が15分も、これさえも出来ないとなるとどうしようか考えてしまうが、
「掃除」より前に、「出来る」を実感させることは大切かもしれない。
我が子の教育でも、出来ないなら、出来ることから褒めて「出来る実感させる」。
これは大切にしていることだ。
おそらく、当たり前に出来ることにシールを貼るなんて、何の意味があるんだと思うが、
きっとシールを貼ってある台紙を先生が見て、母を褒めてくれるのだと思う。
私も、母をいっぱい褒めようと思う。
・・・・「家事」。(「育児」も)
生きていく上で当たり前にやっていることだけれど、これはプチストレスが溜っていくものらしい。
さらに家族の分までこなすとなると、ストレスは相乗レベルで溜っていくのではないか。
掃除というものががうまく出来ないにしろ、家事育児を頑張ってきた母には感謝したいと思う。
先生「是非、次回はシールを貼った台紙を持ってきてくださいね」
さて、今回先生に診てもらってもう一つ母に関して大事なことに気がついた。
母にとって「やらなきゃ」という状況(環境)が、余計にやる気を無くしてしまう、、、、
、、、というより、母のやる気へのハードルが高くなってしまうようだ。
私は、シール台紙を用意したり、アラーム付きタイマーを買って用意したりしたが、
母にとって、「やらなきゃ」という環境を作り出したかもしれない。
とりあえず、やり方が良かったのか悪かったのかは解らないが、「それが解った」のは良かったと思う。
母にとってはとにかく、「掃除をやらなきゃいけない」ということをずっと周りから言われ続けてきたのが原因だろう。
だからこそ、「掃除じゃないところ」から攻めていくのがいいのかもしれない。
今回、溜め込み症の母に関して解ったことは、
- 「やらなければいけないこと」に対してとても億劫になる
- そのため、始めの第一歩へのハードルがもの凄く高い
ちなみに、いつもの精神科の後の喫茶タイムで色んな母の性格が見えてきた。
ここからは、私の予想である。
話をしていると、どうやら母には感情があまり無い。ということに気がついた。
父とうまく折り合いがつかなくなった時の状況を説明してくれるのだが、
そこには感情というより、父が悪い。父のせいだ。考え方が違うからどうせうまくいくわけがない。というところが大きい気がする。
私から観ると、母は「自分の気持ちを父に伝えていない母」にも原因がある。
そして、父は「母の気持ちを聞かずにに先へ行ってしまう」も原因がある。とは思うが・・・
ここで私は、なぜ母はこんなにも気持ちを表すとが出来ないのだろうかと考えてみた。
多分こうだ。
自分の気持ちを言ってしまうと、母の気持ちに沿った形で、状況が変化するのが、
母は怖いのだと思う。
なぜならそこには、自分が気持ちを言ったからこうなったという「責任」が生まれるからだ。
母はこの「責任」から逃れようとして自分の気持ちを言わないと思われる。
そして、その根底には普段からものすごく「人のせいにしている」からじゃないだろうか。
それはいわゆる、「自分のせいにされるかもしれない責任」が母には有ると思われる。
では、何故母はこんなにも「人のせいにするのか」。
ここは、「責任」を負いたくないからだと思う。
という、負のスパイラルに陥っていると思われる。
例えば、先日聞いた母の話で言うと、
歩いているときは、父が先へ先へ速く行ってしまう(ことが嫌だった。)
その後、自転車に乗るときは、父は先に行こうとせず、私【母】が行くのをずっと待っている(ことが嫌だった。)
※( )の部分は母は言わない。私が補足した部分だが、ここを言わないので、初めは何を言っているのか私も解らない。
で、どう思ったの?など、
ここから掘り下げて行くことが大切である。
これを私なりに掘り下げていくと、こうであった。
一番の前提にあるのは、母が自転車の先頭を行くことが、潜在意識のところで嫌だということだと思う。
「責任」を負いたくない母は、「自分で決める」のが苦手である。
今、思えば、旅行の行き先や外食でご飯を何処で食べるか等を父が決めてくれないことに愚痴を言っていたが、
それも決めることへの億劫なのかもしれない。
自転車で先頭に行くと言うことは、大したことがないように思えるが、
実はここには、まあまあ「責任」が存在する。
子供の教育で、私は娘に幼稚園へ行く時など、目的地まで先頭を歩かせるようにしている。
そこには、「ルートを決める」「スピードを決める」など、
後ろからは私からの「あなたに合わせますよ」という見えない圧力が存在する。
これが、「責任」である。
これを苦にならない人がリーダーシップを取れる人であろう。
これには、ある程度幼少期に「自分で決めさせる」ことを教育していないと、大人になってからでは難しいと思う。
母は、「決める」ことから逃げたい人なので、きっと幼少期は自分で決めることをさせてもらえなかったのではないかと思う。
実際、貧乏だったなどで、親に対して欲してはいけないというのが幼少期あったらしい。
ということで話は戻るが、
よくよく母に話を聞いてみると、
父が速く歩いて行ってしまうところは、話が聞き取れ無いから不満に思っていたらしい。
なのに、自転車に乗ると父は先に行ってくれない事に対しては、何故不満なのかははっきり出てこない。
ちなみに私自身がこの責任を取りたくない人なので、この状況はちょっと理解出来る。
例えばこういうことである↓↓↓↓
●外食するときの例
◇例1
責任をとりたくない人「何処でご飯食べたい?」(自分で決めたくない、決められない)
答える人「ラーメン屋がいいな」
責任を取りたくない人の心の中(ラーメン屋かよ・・和食が良かったのに)
◇例2
責任を取りたくない人「何処でご飯食べたい?」(自分で決めたくない、決められない)
答える人 「どこでもいいよ」
責任を取りたくない人の心の中(いつも私が決めなきゃいけない行けないのか。少しはあなたに決めてほしい)
例1は相手が決めてくれた、例2は相手が決めてくれなかった
どちらにしても不満なのである。
と、いうことは、
実は、決められない人は、そもそも自分を大切にしている人である。ということが解る。
自分をすごく大切にしているのに、自分で自分をないがしろにしている事に気がついていない人。
逆に言うと、自分をないがしろに出来る人は、「雨ニモマケズ」の「自分を勘定に入れない人」にしか不可能だと考えている。(究極の自己肯定が出来るということ)
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そういう人にわたしもなりたい。
今まさに、母が自己肯定できるようになることが、
母が父ののせいにしてしまう負のスパイラルから抜けるのに必要なことなのだろう。
さて、自己肯定できるように、周りが褒めるようにすることも大事なのだろうが、
この本を久しぶりに読んで、
今まさにタイムリーで凄く大事なことが書かれていると思う。
↓↓↓↓
この本は、精神的につらい人なら、本人ないしは家族は持っていた方がいいかもしれない。
最初この本を読んだとき感じたことは、
勉強にはなるが、なかなか実践までは難しいと感じていた。けれど、
精神科へ通ったり、色々な努力をする過程で、
今はこの本の中から見えてくるものが沢山ある。
久しぶりに読んで気付いたことは、
今、母に一番大切なのは、
「自分で自分を褒めることを許す」かもしれない。
まずは、「私は〜」の主語で始まるように自分に軸を持っていけるようにならなければいけない。
中間に書いたとおり、母の思考は周りの人中心となっている。
「私(母)」が優先されるように、母の自己肯定感を高めることが今一番の家族の課題である。