ゴミ屋敷解決に向けてへの過程4(予想)【ゴミが捨てられない障害】
こんにちは。
来週、久しぶりの精神科へ母と行ってきます。
母の入院があって、結局まだ精神科へは1回しか行けていませんが、
この何ヶ月で私の考えは驚くほど変化し変わって行きました。
もう何十年、片付けられない母にはどうしようも無いと思っていましたが、
今は、かつての自分自身も負のスパイラルに陥っていた事に気が付き、
自分自身が無知であったと感じています。
最近、私が寝ている間に、「母の不思議な証言」についてにハッと思うことがありました。
その証言は、
「片付けをしようと、捨てようと思っても、コレが何に使えるのか考えていたら凄く時間が掛かってしまう」
わたしは、「・・・・・?(なんだか変な行動だな)」という気持ち。
その時は、普通はそんなこと考えずに捨てるんだけどね〜
とか言いながらその場は終わりましたが、
この証言の意味するものは何なのかずっと考えていました。
この証言の意味が解った気がします。
そして、それが、母の片付けられない病気の本質だと気が付きました!
何かに使えないか、誰かの役に立つのではないかへの「とらわれ」
母の溜め込みの症状としては、
- 安いもの、無料のものを持ってあるいは買って帰る
- 廃品はリサイクルにこだわる
- 昔の子供の服など捨てられない
などが挙げられますが、
でもこれって、実は誰にでもあることだと思います。
ただ、通常は正常な判断が出来るので、モノを捨てることが出来ます。
その判断には、
捨てるか捨てないがの決断力が必要なのですが、
ではその「捨てるという決断」をするためには何が必要でしょうか?
- スペース(置く場所があるかどうか)
- 時間(長時間有るが使っていなかった)
- 価値観(必要かどうか)
- 諦め(ま、いっか)
実は、最後の「あきらめ」が出来ないと溜め込み症になるようです。
そして、大事なのは
諦めが出来ない = 「神経質」 のことを言います。
要は、神経質が原因の強迫性障害です。
何かの文献で、
部屋を異常なほど綺麗にする人と異常なほど汚くする人は同じ病理(神経質)だ。
と見たことがありましたが、
この文献の意味が理解りました。
強迫性障害ので理解りやすい例で言うと、
ばい菌が気になって手を何度も洗う人がいますが、
この人たちの「とらわれ」は、
手にばい菌がついている!
です。
神経質がゆえに完璧を求めると、どこかで手洗いを辞めたとしも本人にとっては完璧ではありません。
だから手洗いを辞められないのです。
完璧を求めると、「諦める」ことが出来ないのです。
母でいう「とらわれ」は、
きっとこれは、後で役に立つかもしれない!
です。
母は、モノを捨てる前に、役に立つかもしれない理由を探します。
これを強迫性障害では「儀式」というそうです。
この儀式をクリアしないとゴミにならない。(というより儀式にかかる時点で、ゴミにならないだろう)
この強迫性障害の儀式は、場合によっては何時間もかかるらしいので、そりゃー片づけ終わりませんわ・・・
私の想像ではおそらく、役に立つ理由が見つかると本人はスッキリという感覚がするんじゃないかと思っています。(次回、母に聞いてみようと思う)
と、いうことで実は何事も「程よい諦め」が大切なのですが、
神経質の素質があると「何かのきっかけでとらわれ始めた時」
強迫性障害が始まってしまようようです。
「とらわれる人」と「とらわれない人」
私は、7歳の娘と2歳の息子が居ますが、生まれつき性格が真逆です。
娘は、神経質で色々なことに気が向きます。弟のやることに納得が行かなくて、許せなくて弟なんか生まれてこなかったら良かったなんていつも言っています。
息子は、無神経でまさに「ぬかに釘」。お姉ちゃんが怒っていることに全く気にしない、手応えなしの無敵です。
この二人を見ていると、弟の方が有利なんですよね・・・笑
結局、「気にする人」が自分で自分を傷つけているようです。
娘は、あまりに手応えが無いので一人で大爆発しています。
さて、娘のとらわれは、
自分はこんなにもちゃんとしてるのに、なんで弟はこんなにもちゃんとできないんだ!
です。
でも、本来は、
2歳の子供にちゃんとしろと言っても無理だ!
と理解っていたら、
そんな「とらわれ」になりません。
そりゃ、大人には理解っても、7歳の子供にはしょうがないですね(これも諦め)
(7歳はまだ自分のことを客観視できない)
と、いうことで、「とらわれ」の根底にあるのは、
「無明」だそうです。
「無明」とは・・・無明とは、仏教用語で、無知のこと。真理に暗いことをいう。
要は、真理を理解っていないことが原因です。
7歳の娘のように、無駄になるってことを知らないのです。
母は、とらわれすぎていて、気がついていないのだと思います。
溜め込むことで、色んな面で無駄なこと。
「何かの役に立つ」の本質をつかめていないこと。
ただ、気をつけなければいけないのは、それを母に伝えたところで意味がなく、
母が、自分で気が付く、悟る事が大事です。
さて、とらわれない人とは、
本を読んで、私の感覚で言うと、
老子の「上善は水の如し」
これは、私の好きな言葉ですが、
自然の摂理に逆らって、自分をコントロールすることが、「とらわれ」ですから、
自然に身を任せることが出来る人 = 適度に、ま、いっか が出来る人。
臨機応変とか、そういうことが出来る人だと思います。
あと大事なのは、気にしない人だと思いますが、
これは天性もあるとおもうんですよね。
自分に気にするなっ言っても無理なんで、そこも「ま、いっか」って出来れば◎なんでしょうね。
というのも、「気にするな」にとらわれる強迫性障害もありますから。。。
今回、このことに気がつくきっかけになったのは、
どちらかというと医者が読む本格的な本です。
ある程度知識がないと読むのは難しいと思いますが、
他の本にはなかった新しい気付きが沢山ありました。
森田療法についても、理解りやすく書いてあります。
より専門的な、近代的な深い強迫性障害の詳細を知ることが出来たと思います。
さて、もう少し、掘り下げていけそうな気がするので頑張ります。
☆ちなみに、私も神経質です。